竹島の帰属・その2


前回の続き。竹島を「元禄の度、朝鮮国にお渡しに相いなり・・・」
について。


(「朝鮮通交大紀」 編者対馬藩儒臣霞沼松浦允任注記より)
当時(江戸初期)竹島は「磯竹島」と呼ばれていました。
慶長19年(1614)徳川家康対馬島宗義智に命じて、
竹島は日本の領土である」 として朝鮮国政府と交渉させました
が、合意出来ませんでした。


元禄6年(1693)米子の領民と朝鮮国の漁夫が竹島で闘争を起こ
したことから、幕府はその所属を確定させる必要に迫られ、対馬
藩主宗義倫に命じて朝鮮国政府と交渉させました。


数年間の論争の末、元禄12年、その時の老中阿部豊後守正武が
竹島は位置が因幡より160里、朝鮮より40里、人の住んでいない
 無用の島だから、国どうしの武力衝突によって隣国との友好関係を
 損なうべきでない」 (私の意訳)
と述べ、日本の幕府が折れる形で朝鮮政府に伝えられました。


それに対して朝鮮国礼曹参議李善溥は「誠に幸いなり」と賛意を伝え
ました。


以上が元禄年間のいきさつです。


竹島の帰属についてはこれで決着がついた・・・と言いたいところ
ですが、これには重大な落とし穴が有るのです。


それについては、また次回。